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2017年11月10日更新
今月から『ワインの香り』の著者インタビューをお届けします。執筆に至る思いから、ワインにまつわることなどなど、改めてじっくり話を伺いました。
東原 和成(とうはら・かずしげ)さん
東京大学 大学院農学生命科学研究科 教授。兼ERATO 東原化学感覚シグナルプロジェクト研究総括。香りやフェロモンを感じ取るメカニズムを研究。文部科学大臣表彰若手科学者賞、日本学士院学術奨励賞、読売テクノ・フォーラム ゴールド・メダル、RH Wright Award(国際ライト賞)などを受賞。
----制作開始から出版まで2年半という時間がかかりましたが、実際に本を手に取ってみていかがですか?
ワインに関して知りたいこと、何となくみんなが不思議に感じている、七不思議的なこと、そういうかゆいところに手が届いた本になったかなと思います。間違って使われがちなことを含めて、きちんと正確に、凝集された形でまとまったという気がしますね。何よりも、バックグラウンドも専門性も違う5人(渡辺さんと佐々木さんは同じ醸造家ですが、大手と家族経営という違いは大きい)が集まって作ったことが、相乗効果をよんだのではないかなと思います。
----本の制作時に苦労したところはありますか?
皆さん忙しくて、なかなか集まれなくて進まない、それがちょっと大変でしたよね。あとはやはり、カードを一番いい形で出すのに、いろいろと試行錯誤をしたところです。
結果的には長谷川香料さんが、こちらが「こんなことをやりたい」と言ったことに対して、それをさらに大きくして返してくれた。こんなこともできるよ、というような感じで。ワインを知らない人を含めて、誰もが分かりやすく体験できるように試行錯誤したからこそ、楽しんでいただけるようなものになったんじゃないかなと思います。
----この本の企画は東原先生でした。この本を作ろうと思ったのはなぜですか?
僕が企画したというのはおこがましくて、以前から皆で、こんな本があったらいいねという話をしていたんです。
ワインについて、日本にはボルドーを中心としたフランスの考え方がそのまま入ってきていて、そういうフランスの伝統的な考え方と方法を、そのバックグラウンドもないまま受け入れて学んでいるように思える。それはそれで正しいこともたくさんあるけれど、嗅覚をやっている研究者から見ると、何かおかしいなと思うことがいっぱいあったわけです。
といっても、嗅覚の仕組みというのは、この20年くらいで分かってきたので、フランスが遅れているというわけではありません。ただ、そういうことが分かる前にできあがったものを、皆そのまま勉強しているように感じました。そういう意味で、香りに関する科学的な知見をもとに考えれば、もっと分かりやすく学ぶことができるのではないか、ワインを味わうときに何気なくやっていることにも、ちゃんと意味があるということを伝えられたら、という発想です。嗅覚という科学的な視点から見たワインの入門書というのは、これまで皆無だったと思うんですよね。
----本書の巻頭にある「日本のアロマホイール」についてはいかがでしょう?
今後は、アロマホイールの言葉をもっと絞る作業が必要かなと思います。この120種類の言葉を全部使って評価するというのは、現実的には、よっぽどの人でないとできない。
だから、よくフレーバー業界でやるのですが、"この言葉を使えば、いろいろなワインの違いを評価できる"という特徴的なものを、20種類くらい選ぶといいと思います。そうすると、もっと簡単に誰でも使えるようになる。
----このアロマホイールをブラッシュアップするのではなく、よりシンプルなものを作るという必要があるということですね?
結局、このアロマホイールをさらにブラッシュアップすると、ほかにこういう言葉も使えるのではないか? ということが出てくるだけで、それは今まで我々が616種類出した言葉の候補に、絶対含まれていると思うんですよ。だからさらにベストなものを120に絞るということは、なかなかできないと思います。
----続いて、東原先生ご自身について。先生の研究について教えてください。
簡単に言うと、におい、フェロモンの研究で、嗅覚を介したコミュニケーションの研究です。仲間同士、天敵、雌雄、赤ちゃんと母親など動物の世界でのにおい、フェロモンを介したコミュニケーションの研究です。ひとに関しては、香りを脳でどう感じるかというメカニズムを研究しています。
----東原先生はいつごろから「におい」に関心があったのでしょうか?
「におい」の研究をしたいと考えたのは、大学4年生のときに有機化学研究室に入って、いろいろな有機溶媒などのにおいを知ってからです。そのころから少しグルメになって、香りを介したおいしさを理解できるようになってきたこともあり、においの不思議、また昆虫の世界のフェロモンの不思議に惹かれていきました。
でももっと遡ると、すごく印象に残っていて、自分の中で大きく影響を受けたと思うのが、映画の『時をかける少女』(1983年/大林宣彦監督)。ラベンダーの香りで時空間をさまようという。あれは強烈でした。僕が高校一年生くらいのときですね。
----先生がワインに惹き付けられるようになったきっかけは?
2005年の秋に、雑誌『ワイナート』の特集で、鹿取みゆきさん(本書の共著者)が僕に声を掛けてきて、その時にいろいろなワインを送ってくれたんです。イタリアの自然派ワインの「サッサイア」やラベルの無い濁ったワインなど、とにかくへんてこりんなワインがいっぱいあって。それがすごくおいしくて。ワインに対する自分の考えがだいぶ変わって、ワインの世界っておもしろいなと思ったのがきっかけですね。そしてその冬に、前年から鹿取さんが始めていた日本ワインの生産者のための勉強会で講演をして、それからずっと一緒に生産者の会(「日本ワイン 造り手の会」)をやることになって、日本のワイン生産者たちとも親しくなりましたね。
----それまでもワインを飲んではいたんですよね?
あまり飲みませんでした。それまでは、そんなにおいしいと思わなかった。そもそもワインとかコーヒーとか、おいしいものではないんですよね。昔、コーヒーが日本に入ってきたときは、人々は、あんなもの飲めないと言った。苦くて、焦げ臭くて、焼けたようなにおいで。でもイギリスのほうで高級階級のひとたちが飲んでいるという情報やシチュエーションで、飲むようになっただけです。ワインもそうですよ。最初はたぶん、ブドウをつぶしてちょっと発酵させたくらいの、ジュースに近いようなものだったわけで、ここまで発酵させたものは、すごくおいしいものというわけじゃない。ビールもそうですよね。最初はおいしいとは思わない。楽しんで飲んで、アルコールが入って、そういうシチュエーションに段々慣れてきて、おいしくなるわけです。最近ではパクチーもそうですね。昔は食べなかったのが、ハーブに慣れてきて、受け入れられるようになってきた。
----なるほど。では、なぜワインの香りは、人を惹きつけるのでしょうか?
やっぱり、臭いからじゃないですか? 発酵食品だからだと思います。微生物が作り出す香りというのは複雑で、少し臭いにおいも入っていて、だからそこが、ひとがもう一回嗅ぎたくなるような、そういう魔力を持っているのだと思います。あとは、やはり「何のにおいだろう?」と思うからでしょう。微生物が出すような発酵のにおいというのは、何のにおいかよく分からない。また、どこか懐かしさを感じさせるような部分もあるからだと思います。
----先生ご自身も、ワインの香りを表現するときに、難しいと思う点はありますか?
いや、こういう本を書いたけれど、そもそも僕はワインの香りを表現することは非常に苦手です。なぜかというと、僕はあまり香りを記憶できない。本にあるような果物や花などの香りを記憶すれば、ワインの香りを表現できますが、僕はもうにおいをケミカルで記憶してしまっていて、ケミカルのにおいはワインからそんなにはピックアップできないので......。だからどちらかというと、僕は観念して、香りを細かく分析しないで、全体でそのまま感じて飲みます、という方ですね。こういう本を書きながら、逆行しているというか(笑)。
----ケミカルで記憶......!(絶句する編集 ※文系)
では、先生の記憶に残る印象深いワインの香りはありますか?
これはね、難しいんですよ。ひとことで言える香りって、無いんです。でも一度だけ、白ワインと魚介類だったと思うのですが、それを合わせたときに、ワインからも感じられない、魚介類からも感じられない、新たなとてもいい香りが、ふわっと出てきて感動したことがあります。言葉には言い表せない、何か分からない香りです。
本当に印象に残る香りは、おそらく、何か分からない香りなのだと思います。そのときにおいしかったと感じて、後日また、あのときすごかったなというように、折あるごとに思い出す。たぶんそれは「何だったんだろう?」と思うからで、そういうものが印象に残る。何かのにおいだったら、きっと忘れてしまうでしょう。
----最後に、先生のこれからの夢を教えてください。
難しいですね......皆さん、この年になって夢はあるんですか?(笑)
うーん。ほんとに「夢」だったら、20代に戻りたいですね。20代に戻ったら......研究はしないだろうな。建築家になるのが夢だったから。そういう意味では、すごく現実的な夢だけど、自分で設計した家を建てたい。それはありますね。
●東原先生の「好きな本」紹介
『身体の宇宙誌』
(鎌田東二 著/講談社学術文庫)
生命体についての科学的な考え方と少しオカルト的な考え方をうまくミックスしていて、ひとが何気なく感じてきたことが、実は科学的に理にかなっていることが多い、という内容です。結構、研究のヒントになったりするんですよ。
この本には書いてないのですが、例えば京都に花折断層という有名な断層があって、そこに不思議と、断層に並ぶようにして神社が建てられている。ひとは何かを感じて鎮座させたのでしょう。実はそういう研究が、京都大学の元学長の尾池和夫先生によって行われています。そんなふうに、人間の身体はいろいろなことを感じ取って、それを具現化している。科学的に解明すると、実はすべて理にかなっていて必然的である。だから科学者は、単純に生命現象をやっているだけではなくて、不思議と思われているようなことにも、実はすごく興味があるんです。なぜなら我々のスタンスとしては、そうした不思議とされることであっても、必ず科学の力で説明できると思っている。神話や昔話なども、絶対に何か説明できるはずだ、という感覚があるんですよ。だからこの本が好きですね。でもちょっとマニアックすぎるかな?
『空間の経験 身体から都市へ』
(イーフー・トゥアン 著 山本浩 訳/ちくま学芸文庫)
空間というものはランダムにあるわけではなく、実はきちんと設計されている、ということを考えさせられる良書で、それはにおい、フェロモンの話にも繋がります。動物はにおいやフェロモンを感じ取ることによって行動が制御されるので、それはすなわち空間におけるにおいやフェロモンの動きに影響を受けているといえる。だから実は空間というものが、人間を含むすべての動物の精神や行動、あるいは思考を支配している、という考え方です。僕はもともと建築家になりたかったので、空間設計に非常に興味があります。空間の形も、我々の身体に影響を与えているということを信じているタイプです。
【好評発売中!】
『日本のワインアロマホイール&アロマカードで分かる! ワインの香り』
(東原和成 佐々木佳津子 渡辺直樹 鹿取みゆき 大越基裕 著)